弥陀の本願には老少善悪のひとをえらばれず

私は去年から、地域のお寺から来られたご門徒さまの話しあい法座(門徒推進員養成連続研修会)開催の担当をしています。
月に一回で連続十一回開催します。
参加者は私と同年配以上の方ですが、中には五十代もおられます。それでも若い方はおられません。
各御家庭でも、お寺の用事はご高齢の方の役になっているところが多く、
お仏壇のお給仕も若い方はよく知らないということが普通のようです。
冒頭の文章は、親鸞聖人のお言葉が書かれている「歎異抄」の第一条にあるお言葉です。
私をお救いくださる阿弥陀さまの本願は、
老人であれ若者であれ、善人であれ悪人であれ、全くわけへだてがてない。
ただその本願の御言葉をはからいなく受入れる信心が要であると知るべきである。とあります。
老若や善悪にかかわらず、
誰にも平等に願いがかけられているという意味だと思っていました。
でも梯實圓(かけはしじつえん)和上の著書にこのようにありました。
これは私一人の救いのためにあることを見逃してはならないと。
若いときの私にも、年老いてからの私にも。
善い心のときの私にも、悪い心のときの私にも、
どのようなときの私にも分け隔てなく、包み救いたまう仏心をあらわしていると。
老少・善悪といった私の表面的なところを超えて、
無限に深い「いのち」そのものを見据えて、
私を救うと仰せくださることに気付かないといけないとありました。
私の一生を通して、必ず救うとはたらいてくださる阿弥陀さまであります。
若いときには用事はなく、年老いてから参ればよいということでは決してないのです。
たしかに老病死の苦しみは年とともに増すのは事実ですが、
阿弥陀さまのお念仏にであい、
いまここにはたらいてくださる阿弥陀さまの救いのはたらきに気付かせていただくなら、
阿弥陀さまとともに心豊かな人生を歩ませていただけます。
一刻も早く信心たまわる人生を歩んでいただきたいと、心より思っています。
南无阿弥陀仏
これは3月の寺報を転載しました。ダウンロードはこちらから
写真は大谷本廟です。
