ただ念仏して、弥陀にたすけられまいらすべし

このお言葉は、親鸞聖人が法然聖人に出会って聞かれたお言葉と、歎異抄の中で、道をもとめて必死やって来たお同行にお話しになっています。
親鸞聖人は九才で比叡山にのぼられ、生き死にのとらわれをどうしたら克服できるかを求められました。そのために、様々な学問をし修行をされました。命がけで励んでおられたようですが、何をやっても我欲のとらわれから離れることはできなかったようです。そして二十九才のときにそれまでの努力を捨てて、法然聖人のみもとに行かれたのです。行くときにもそうとう迷われたようです。ですが決心していかれた。きっとおそらくそのときの親鸞聖人は行き詰まり、思い詰めた様子だったことでしょう。
そこに出てこられた法然聖人は、おそらく穏やかな様子でゆるやかに「ただ念仏して、阿弥陀様にたすけていただきなさい」とお話しになったのです。親鸞聖人は雨の日も風の日も、法然聖人の元に通われたと、おくさまのお手紙に残されています。
親鸞聖人は何とか獲ようと必死で頑張っておられた。けれど法然聖人のお言葉を聞き、阿弥陀さまのお慈悲の心にふれられ、肩の力をぬいて、ただ念仏して、阿弥陀さまにすべてをおまかせになったのです。
ところで、世の中はコロナウイルスの影響でとんでもないことになっています。お盆の帰省やお墓参りについても、行っていいのか悪いのか。帰省された方に対して、心ない批判も容赦なく向けられたこともあるようです。
リスクを冒さないことや、他人を危険に巻き込まないようにすることは大切なことです。ただ自分は移す側にはならないと思っていても、いつ何時どうなるかはわかりません。バッシングをしてもバッシングされる側になってもおかしくはないのが、今の現実です。自分は正しい、相手が間違っているとして、善し悪しの判断をし、人を傷つけ傷つけられるのも、苦しいことです。そしてこのことが頭でわかったとしても、この苦しみから逃れられないのが私たちではないでしょうか。
こんなとき歎異抄の「ただ念仏して弥陀にたすけられよ」と言われるお言葉がひびきます。
阿弥陀さまは、私がどのようにあろうとも「我をたのめ、必ず救う」とはたらいてくださいます。私の方には何の用事もない、こうあらなければならないなどということもない。ただただ、阿弥陀さまの方からはたらいてくださるのです。
人生には苦しいこと、悲しいことから逃れることができないときも多くあります。また苦しみ悲しみを自ら産みだしてしまう私たちであります。それはまた私たちのありのままの姿、苦しみの姿をありありと映しだしています。そんなときは、肩の力をぬいてただ念仏し、阿弥陀様のことを思い出させていただければいいのではないでしょうか。
8月14日 盂蘭盆会法要での法話から
